の話”ヨロガジ
                                           藤井三千勇

ヨロガジ(여러가지)とは、色々という意昧の韓国語である。何となく色々と云う感じのひびきがあり覚えやすい。 辞書を引くと여러とは色々なの意味で가지とは種類とある。日本語でも“よろずの神”と云う様に“よろ”は“諸々の”と云う意昧に使い共通している様にも思われる。
さて“土”を私達土木技術者は土木材料として、又は構造物を支えるモノとしてその物性、強度と云う側面から把握してきた。所謂、土と基礎の世界である。
最近、すこし違う側面から土を見てみるように心がけている。
ここではその視点から“土”を考えてみる。


1.表を大切に考えよう

私達土木屋は地球の表面の木が育っている表面の部分を表土と呼んでいる。
工事に先立ち樹木の伐採につづき表土取除きを行う。このとき現場ではまさに土のにおいを強く感じる。
この表土は取除かれれば、残土として大部分捨てられる。しかし、この土こそ地球が誕生し樹木が生え、雨水をたくわえ微生物か繁殖し、地球上の生物のバランスをとっている地球の主役なのである。この表土は“土壌”とも呼ばれ、1cm生成するのに100年かかるとも云われている。
いわば人類にとって大きな資源である。これを捨てるのは、宝を捨てることであり、大きな資源とし、再利用を図ることを考えるべきである。


2.と足のうら

私達は子供の時に土でよく遊んだものである。土の上をハダシで歩き、土のぬくもりを感じ海へ遊ぴに行くときはハダシで砂地の上を走っていく。石英質の砂は夏の太陽に焼かれてあつい。木陰をねらいやける様な砂の上を一気に走り足の裏を冷やし、いえたところで次の木陰をねらって一気に走る。足の裏で土を感じたものである。
その癖が今でも残っているせいか、地すべり現場では長靴をはいてはいるが動いている土と動いていない土はふんだ時の足の裏の感触で大体わかる。
土の上には落ち葉などがかぶっていることが多いが、動いているところは土が引張を受けているのでふわっとソフトな感じかする。
動いていないところはカチンとハードな感じがする。その境界がすべり面のトップということが経験的にわかる。
私は小学校・中学校まで殆ど学校へはハダシで通ったものである。中学は名古屋の昭和中学と云う丘陵地にある中学で歩いて1時間位のところである。多分、第三紀層か洪積層の礫まじり土の土質であった様に思う。路面は勿論、砂利道であるが砂利と云うより地山の上を歩いた感じだ。路面は乎坦でなくでこぼこしており、先の尖った石を踏むと痛い。これを踏まない様に無意識に歩を運ぶのは、運動神経を鍛えるのに役立った。学校へ着けば足の洗い場があるから、足を洗い教室に入ったものである。
最近、健康法として竹の上を踏んだり足の裏に刺激を与えるのが健康によいと云われ、高い料金を払ったりしているがハダシで歩くとか、せめて藁草履位で歩くようにしてはどうかと思う、こうすれば水虫になる心配もない。
そして歩道は土とし足の裏で、土のぬくもりを感じたり、出っばた石の痛さを知ったりしてはどうだろうか。


3.俵の

相撲は日本の国技である。感心することはいくつもあるが土俵にしぼって考えてみる。以前に雑誌「土と基礎」に土俵の土はどう云う土かということが載っていたことがあった。たしか、粒土分析がなされ含水比コンステンシー強度などが出ていた様に記憶している。
どんなに強く踏んでも即ち、集中力か加わっても穴かあいたことを見たことがない。即ち破壌を起こしたことがないし、又力士か土俵に叩きつけられても、怪我をしたこともない。
あれがコンクリートの上であれば多分骨が折れたり、こすってすり傷位はするだろう。実に良く出来ていると思う、これは弾力性強度などの計算はしていないが、経験工学の最たるものである。
又塩をまくのもユニークである、多分土俵の表面の土と良い反応をし調整を図る効果かあると思われる。それにしても毎日毎日まく塩の量は大変な量だが、どこにどうなって土にくみ込まれるのだろうか。
相撲は土を主役としたスポーツの代表と云える。観衆の注目を集めるところに土を盛り、その上で人が格闘をする。同じ様なスポーツでも例えばボクシングでは、床はマットであり、柔道では畳である。
土の上でしかもあのスタイル、世界に例を見ないフンドシ一つ。土の上で戦う。これが本当の人間の姿ではないか。
土に足の裏以外の体の一部がつけば負けである。土がつくのである。


4.身不二

韓国へ行くとよくこの字か目につく、町の看板に書いてあったり食堂のナプキンにもよく書いてある。
読んで字のごとく身(からだ)と土(その地域の土)とは二つではない。即ち一つであると云うことである。
我々韓国人の五体は韓国の土から育っている。韓国の土から出来る野菜・米・果物を食べて健康なのであり、他の国のものはとらない。
本屋で「身土不二」と云う題名の本があったので買って読んでみた。そこには次の様に書かれている。

私たちの土壌でわれわれの方法によって栽培した農水産物を材料にし、われわれの伝統方法にしたがって調理したわれわれの伝統飲食を食すると、健康で長生きが出来ると云う原理を表している。

韓国の祖先たちは100里以遠の農産物は食べないと云われているそうである。
自分が育ったところの土で出来たものが自分の身に一番良く合う、これが身土不二なのである。松江に住む韓国人の林(イム)先生から聞いたことだか、韓国からトンガラシの種を持ってきて松江で作ったらだんだん辛いものになった。即ち、土によって味も変わるそうである。
なるほど、コーヒーにしてもキリマン・ブラジル・ブルマン色々種類があるか同じコーヒーの種でも土地の土によって変わった味になると云うことだろう。
ならばジャパンコーヒーもなくてはならない。


5.の悲痛なさけび

〜雑草は何故きらわれるのか〜


先日、本屋の駐車場の周りに本屋のお姉さんが草刈りをしていた。駐車場自体はアスファルトの舗装がしてあるのだが舖装と敷地の境界に多少の隙間があり、草が生えていたのである。
せっかく生えているのに何故とるのかと尋ねたところ、お客さんにきれいにするよう注意されたとのことである。
雑草は都市の中では、きたないもの、必要のないもの、人の手入れの行き届かない邪魔者として見られている。
しかしはたしてそうだろうか、草の生えない舗装、コンクリートの立派な建物で囲まれた風景は、我々がきれいだと云う概念によってその様に思いこんだ結果ではないだろうか。
少しの隙間から必死に芽を出し、生えている雑草はむしろ景観に取り入れられてしかるべきではないか。雑草を支えているのは土である。土と水、そしてささやかな微生物かこの雑草を支え支援しているのである。舗装によっておおわれた下の土は生きているのだろうか、死んでいるのではないか。
我々人類の命をはぐくみ、育ててきた土は都会では生きられないのである。こんな光景がとても私には美しいとは思われない。
舗装の境界で必死に成長しようともがいている雑草こそ大切にし、都市に生かすべきではないか。


6.

どぼくと云う言葉は最近あまり聞かれない。
○○大学土木科、又は土木工学科と云う名称は最近社会開発課とか、都市システム工学科とか、私には習っていることの中身かわからない様な名称に変わっている。
私も学生の時には土木と云う言葉は土方と云う暗いイメージで、むしろ英語で云うシビル・エンジニアーと云う様な表現にならないものかと考えていた。
しかし最近は“どぼく”と云う言葉か重みかあり、歴史を感じる言葉の様に思われてきている。
最近、三瓶山の噴火時に埋没した縄文杉がそのままの姿で表れたり、大社の巨大な杉の柱根が出土したりした。
もし、大社か鉄骨コンクリート構造であったら今残っていただろうか。鉄は腐食し多分何も残ってはいなかったと思われる。
土木はやはり土と木である。永遠に残るのである。
最近我々が住む家も土と木が見直されている。
一時はコンクリート、外装はモルタル的で内部は人工的な化学シート等で近代的文化住宅と云われていたが最近は、壁はどろ壁、床も木材と云う様にやはり自然材である土と木が健康によいと云うことで見直されたと云うことである。
最近、韓国のKBSテレビでタタ土についての番組を見る機会があった。タタ土をよごれた湖にまくことで水質浄化の効果があることとか、タタ土で作った団子を鯉に食べさせると、きわめて元気になるとのことであった。
土と木には、まだまだ隠された秘密があるようである。


7.人は死んだらにもどれるのか

人は土から生まれ、土にもどると昔から云われている。たしかに昔は土葬として直接土に返された。
現代では、きれいな火葬場で火葬とされる。人の身体は灰と骨として分離される。一部の骨は遺骨として家族が持って帰るが残りの大部分の骨はどうなるのか。
多分灰は産業廃棄物としてどこかに処理され、骨は聞くところによれば薬品の材料として再利用されている様である。一説では、競馬のカルシウム剤として利用されているとも聞く。
馬の糞となってやっと土にもどることが出来るかもしれない。
世の中が進化し、色んな技術が進歩するがかえって複雑となり、わかりにくくなることも多い。
今年の2月、西ノ島町と韓国の慶尚南道の釜山の近くの三山面と云う町村とが交流することとなり、韓国の代表の方が西ノ島町を訪問された。
私が案内役をしたが三山面と西ノ島町は日本海をへだてて目と鼻の先の約200kmの位置にある。
彼らは三山面から車で普州市へ出て、飛行機でソウル金浦空港へ行き乗り換えて関西空港へ到着し、それからはおわかりの通り新幹線で岡山まで、伯備線で松江、次の日にフェリーで西ノ島と実に大回りをしてたどり着いた。
飛行機・新幹線など現代文明の粋を集めた乗り物で来たわけであったが、古代人は船で海流にのり真っ直ぐ来たわけである。物事は今一度、シンプルに考えてみる必要かある様である。
私は死んだらまわりくどい形で土にもどるのではなく、シンプルに土に埋めていただき、土と水と微生物に分解され大地にもどりたいと切に願うものである。下手をすると馬の糞もリサイクルされ永遠に流浪の旅を余儀なくされ、土にもどれないかもしれない。